皆さんのお宅は、お正月に門松を飾りますか?
子どもの頃、毎年祖父がクリスマスが終ると、松や竹で「門松」を作って、飾っていたのを思い出します。
そんな祖父が亡くなった現在では、我が家は松飾りのみです。
門松については、他のご近所のお宅も略式化して、あまり見かけなくなりました。
今回はそんなお正月の風物詩、「門松」についてのお話し。。
門松の意味や時期と飾る場所について、古きよき日本の文化、門松の謎について見ていきましょう。
門松の意味は?
はじめに「門松」は、なぜお正月にわざわざ玄関先に、置かれるようになったのでしょうか?
お正月とは、万事の始まりと言う意味合いがあり、「年神様」と呼ばれる神様が訪れて、幸福をもたらす。と言われていました。
「門松」は年神様を迎え入れる為に飾るのもので、太い竹を3本束ね、根元に若松の枝を差し、梅を添えたものです。
松は神を「待つ」、神を「祀る」の意と、常緑であることからマトノキ「真常木」、久しきを「待つ」、「保つ」の意味もあります。
毎年お正月に各家にやってくる年神様が宿る安息所であり、また、神霊が下界に降りてくるときの目標物とも考えられていました。
江戸時代の都では、「松は千年契る、竹は万年を契る、めでたいもの。年の初めの祝い事」として、お正月の大名屋敷には大きな門松が飾られ、さらに竹が普及しはじめたために、門松に竹も使われるようになりました。
そして、家の出入り口の左右に門松を「対」に置くようになり、これが現在の門松の始まりです。
お盆にご先祖様を迎えるために、「迎え火」として提灯や火を焚きますね。
これは、家にご先祖様たちを導くためです。
それと同じように、お正月は神様をお迎えするために「門松」を飾るのです。
門松を飾る時期はいつからいつまで?
門松はいつからいつまで飾るのでしょうか?
門松を飾るには、昔のしきたりがあります。
先ず「松迎え」といって、門松に用いる松を山から切って来て、お正月の準備を始めるのが12月13日です。つまり、それ以降はいつでも門松を設置してよいことになります。
ただ、設置してはならない日があります。
12月29日と大晦日の12月31日です。
29日は、二重の苦ということで縁起が悪いのと、31日というのは、新年の前日に慌てて飾るのは、神様をないがしろにしていることになり、「一夜飾り」「一日飾り」とよばれ、これも縁起が悪いとされています。
ただ、少なくとも「松の内」の間は、飾るのが望ましいようです。
「松の内」というのは、門松の飾られる期間のことで、年神様が滞在する期間のことです。
本来の「松の内」は1月15日の小正月までですが、関東では1月7日までのことを言います。
江戸時代に幕府より、正月を1月7日で切上げるようにと、お触れが出されたため、関東地方ではそれ以来1月7日までが「松の内」で「松七日」と言われています。
関西では、今でも1月15日までとする地域が多いようです。
この「松の内」が地方によって異なるのは面白いですね。関西の方が、年神様はゆっくり滞在することができるのでしょうか?
門松の飾る場所は?
それでは、門松を飾る場所について見ていきましょう。
飾る場所にもきまりがあるのです。
門松には「雄松(おまつ)」と「雌松(めまつ)」があり、それで1対になります。
雄松と雌松の見分け方は、
雄松は、樹皮が黒っぽく、葉が太く、固くて長いもの。
雌松は、樹皮が赤っぽく、葉が細く、柔らかく短いもの。
の、ようです。
それを、玄関に向かって、左側に雄松、右側に雌松を飾ります。
門松は一般的には、玄関や門の入り口の両脇に対で飾ります。人を迎い入れる方に向けて置くのが正式な置き方です。
最近は、マンションやアパート、玄関先の状況などで門松を飾れないお宅も多いようです。
そんな場合は、ミニ門松なども、安価で購入しやすくなっていますので、場所を取らずに飾れるので重宝です。また、玄関ドアに松飾りなどを飾るだけでもお正月感が一気にアップします。
「門松リース」など、手作りするのも楽しいと思います。
オリジナルのクリスマス・リースの後は、お正月リースを用意してお正月を楽しむのも素敵です。
その後、飾った門松は、近くの「どんど焼き」で燃やすのが、理想的な方法です。
まとめ
今回は「門松の意味知っていましたか?いつからいつまで?飾る場所も」について、お話してきました。
「門松」は、年神様をお迎えするための目印でした。
飾るのは、12月13日から1月15日までですが、29日と31日は避けることや、関東は1月7日まででした。
雄松と雌松を対にするようにして、玄関先や門口などに飾りましょう。
「門松」というのは、お正月の縁起物のひとつです。
子供の頃、信心深い祖母がよく「縁起物は粗末にするとバチがあたる。」と言っていました。
縁起物にはそれぞれ大切な意味があり、それをきちんと遂行することが神様に対する感謝や尊敬になる。
ということだったのでしょうか。
あるいは、そんな文化が少しずつ忘れられ、略式化され、無くなってしまう事への危惧だったのかもしれません。